小さないのちを守る会の歴史と証し(その8) 辻岡敏子

~2012/04/28総会に於いて~

1990年、この年から月刊誌「百万人の福音」に、小さないのちを守る会のドキュメンタリー「小さな鼓動のメッセージ」の連載が始まりました。最初2~3回の編集者の予定が、読者の反響が大きく、足かけ3年間続き、海外に在住する日本人の方からも読んでいるとの便りがあり、小さないのちを守る会の働きの輪が次第に大きく広がりました。山形では「山形小さないのちを守る会」支部が発足し、当時、蔵王キリスト教会の川崎廣牧師が代表となりました。

1991年4月25日から27日まで、国際生命尊重会議(国連NGO・本部スイスのローザンヌ)の第二回世界大会が日本で開催されました。31カ国のプロライフ代表50名以上が参加し、PRO-LIFE JAPAN(小さないのちを守る会)も参加協力して発言し、すべての胎児が生きる権利があることを全員一致で確認し、「胎児の人権宣言」の議決を世界に向けて発信しました。

同会議の席上、小さないのちを守る会の会員の菊田昇先生が、永年のいのちを守る戦いが世界的に認められ、マザーテレサに次ぐ「世界生命賞」が授与されました。

9月18日には「沖縄小さないのちを守る会」が発足します。沖縄各地の牧師先生19名が委員の役 を引き受けてくださり、辻岡が出席して共に祈り合いました。那覇バプテスト教会牧師国吉守師が委員長となりました。そして、翌19日に沖縄セブンスデーアドベンチスト病院で養子の赤ちゃんが誕生し、沖縄での第1号となりました。

その後、9月21日には北海道の札幌クリスチャンセンターで「北海道小さないのちを守る会」の発足式が行われました。辻岡夫妻も参加して出席者は56名となり、三橋萬利先生が委員長となりました。同先生の牧会する福音館の一室を電話相談受付の場としました。このあと、札幌の平畠功産婦人科医、また藤村保文産婦人科医によって何人かの養子の赤ちゃんをお世話しました。

10月7日には、私たち(辻岡夫妻)が沖縄へ赤ちゃんを引き取りに行く際に、近代映画社の千葉茂樹監督が取材したいとのことで、監督ほかスタッフ2人 と私たち5人で沖縄に向かいました。私たちは石垣島、西表島へ足を伸ばし会員を訪問し、そして那覇に戻り、赤ちゃんの祝福壮行式を会員の喜久里 衛産婦人科医師の勤務する病院のチャペルで行い、私たち夫婦は赤ちゃんを抱いて東京へ戻ります。

マザーテレサの記録映画を撮り、世界的な映画賞を何回も受賞している千葉茂樹監督は、小さないのちを守る会の働きに感動しながら、ずっとカメラを廻していたのがとても印象的でした。それ以後、喜久里 衛先生が何人もの養子の赤ちゃんを取り上げてくださり、私たちは何回も沖縄へ行くことになりました。

1998年1月~2月の約1ヶ月間、当時のハーベストタイムアメリカ支部の稲葉寛夫師に招かれ、ヒロ&リエと私たち4人でアメリカの「賛美と講演」のツアーをすることになりました。東海岸、西海岸ともに大勢の方々が各集会に参加してくださって、いのちの尊厳とクリスチャンの社会的使命のために祈りを一つにしました。(かつて経験したことのないジェット気流に遭遇し、一同、生きた心地なく、生かされているいのちの尊さと感謝を身をもって体験しました。)

ツアーの最後を北米ホーリネス教団・サンロレンゾキリスト教会で礼拝を守り、健象が礼拝メッセージと午後は講演、敏子は教会学校(CS)でお話しさせていただきました。夜には北米毎日新聞社の女性記者が、小さないのちを守る会の働きについてインタビューに来てくださり、その内容が新聞に大きく掲載されました。